いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

嚢中の錐

 前回は、善人に見せかけた悪人の話と、人の本質を見抜くための方法をそれぞれ上げてみたが、人の才能を見抜く方法もある。

 それは、実際に使って試す、というもの。これは現代でもよく使われる手で、その人とじっくりと話してその本性を見抜く、あるいは今までと違う仕事をやらせてみる。すると、仕事が遅々として進まなくて評価の低かった人物が、慎重に慎重を重ねていただけで、決してさぼっているわけではないと判明する。あるいは、寡黙で人当たりがあまり良くないと思われていた人物を、臨時で営業に出してみたら相手先からの評判が良く、会話が上手で冗談もよく交える根の明るい人物だと判明する。

 

 とはいえ、現実には容易ではない。

 学校でも会社でも、誰もが一度は思ったことがないだろうか。

 自分は本当はもっとすごい、自分ならもっとうまくやれる。なのに、やらせてもらえない、認めてくれない、任せてくれないから、実力が発揮できないのだ、と。

 一方で先生や上司などは反論する。自分は能力ある人間をちゃんと評価している、お前は自分で思っているほど有能ではないのだぞ、私は人を見抜く目に長けている、などと。

 自分には才能があるのに環境に恵まれていないと思っていた人の行動と、人の才能を評価できる鑑識眼があると自負している人は自戒すべきという教訓を教えてくれる話がある。『史記』の読者に人気の高い「嚢中の錐」が、それである。

 

 紀元前三世紀頃の中国は大陸がいくつかの国で分裂されていて、戦国時代と呼ばれている。その中でも比較的勢力の大きな国が七つあり、それらは「戦国七雄」と称されている。その一つ、趙の国に平原君と呼ばれる人物が登場した。姓は趙、名は勝。彼は三千人もの食客を抱えていたという。食客とは、武芸や学識などに秀でている人たちを客として優遇するもので、その中には後に政治や軍事の表舞台に立って歴史に名を残した人物も、僅かではあるが存在している。食客は身分が低かったり、大臣などとの縁故が無いために登用されるチャンスに恵まれない人が多く、養ってくれる人物を探している。そして養う側も、優秀な食客をたくさん抱えていること自体がステータスシンボルになるので、実際に活躍してもらえなくても家にいるだけで自らの価値を高めてくれる。同じように三千人もの食客を抱えていた人に、孟嘗君、信陵君、春申君などがおり、彼らはまとめて「戦国四公子」と称される。

(余談だが、かつては「戦国四君」と呼ばれていたが、「君」は「君主」に繋がり、封建的に過ぎるという理由で中国では「四公子」と呼ばれるようになっている。ただし、孟嘗君だけは公子(王の一族)ではないので、この呼称にふさわしくないという意見もある)

 紀元前259年のこと。趙の首都である邯鄲が、秦の軍勢に包囲された。秦は西方の田舎にある中堅規模の国だったが、この頃には最強の国家となっていた。ちなみに紀元前221年に全土を統一する始皇帝は、まさにこの年に誕生している。

 南の大国である楚に援軍を求めたい趙王は、平原君を使者として立てることにした。平原君は食客の中でも特に優れた二十人を連れて行こうとしたが、十九人まで決まって、残り一人が決まらない。そこへ進み出たのが毛遂という人物。そのやりとりを、少しばかり小説的にしてみると、こんな感じだろう。

「平原君は、連れていく食客の残り一人が決まらないとおっしゃる。ならば私を連れて行ってください」

「あなたは、ここへ来てどれほど経ちますか」

「三年です」

「優れた人物というものは、錐のようなもの。嚢の中に入れれば、先端を露わにするものです。三年も経っているのにあなたの評判を聞きません。今回は見送りましょう」

「では嚢の中へ入れてください。もし以前から入れられていれば、今頃は先端どころか柄まで突き出ていたでしょう」

 このやり取りに感心した平原君は、毛遂を最後のひとりとして同行することにしたという。ちなみに嚢とは物を入れる「ふくろ」のことで、土を入れる土嚢(どのう)、氷を入れる氷嚢(ひょうのう)などに当てられる。

 さて、趙から楚まで南下する間に、毛遂は他の食客たちに論議を吹っ掛けられたが、悉くそれに応え、みなを心服させてしまったらしい。さて、楚に到着して、平原君が楚王と会談を行い、援軍の要請を頼むも、なかなか了承してくれない。話が進展しないまま時間が経つと、控えていた毛遂は突如として剣を握り、平原君の横に就く。

「盟約を結べば楚と趙は有利、結ばなければ不利。こんな簡単なことが、早朝からこんなに時間が経っても分からないとは、どういうことですか」

 いきなりの乱入に怒った楚王に

「下がれ」

 と怒鳴られるも、毛遂は逆に剣を携えたまま楚王に詰め寄る。

「王が私を怒鳴ったのは、楚の力が背景にあるからです。しかしこんなに詰め寄られてはどうにもならないでしょう。さて、わが主君の前で私を怒鳴った理由をお聞かせ願いたい。今の楚は五千里四方の広大な領土と、百万の軍勢を持つ大国です。楚に対抗できる国など無いに等しい。それなのに、秦の白起などという小僧が率いる数万の軍勢と戦って敗れ、国都を奪われ、楚の祖廟は焼かれ、先祖が辱められたのです。これは趙の人間ですら恥ずかしいと思っているのに。王はこのことをどう考えているのですか。楚と趙が同盟を結ぶのは趙のためではない。楚のためなのです」

 これに気圧された楚王は盟約を結ぶことを約束して、翌年には援軍を差し向けることとなる。同盟締結の役目を果たして帰国した平原君は、毛遂を上客として最高の優遇をしたという。

 平原君は語っている。

「人物の評価はもうやめよう。これまで千人以上の評価を行い、天下の有能な人たちをすべて見抜いているつもりでいた。しかし、毛遂先生を見抜くことができなかった。毛遂先生は楚へ一度赴いただけで、趙の威厳を大いに保った。先生の三寸の舌先は百万の軍勢に勝る。私は人物を評価することは、もうしない」

 

 

史記〈2〉乱世の群像 (徳間文庫)

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