いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

三人で一人魚喰ふ秋の暮れ

 三人で一人魚喰ふ秋の暮れ

 

  意味は「三人のうち、一人が魚を食べた。秋の暮れ」というもの。

 特に情緒が感じられるわけでもない、単純で面白味もない句のようではあるが、これが謎かけだと察し、解答が分かると、思わず手を叩いてはしゃぎたくなる仕掛けが施されている。

 以前にも別のブログで書いたことがあるが、とても好きな謎句なので、ここでも紹介したい。

 

 さて、この句に込められた謎を解くひとつめは「秋の暮れ」。

 これは字数の限りがあるためで、正確には「秋の夕暮れ」である。

 謎を解くふたつめは「三人」。

 「秋の夕暮れ」で「三人」とくれば、和歌の世界でピンとくる人もいるはず。

 そう、謎の正体は「三夕(さんせき)」なのだ。

 

 『新古今和歌集』「巻四 秋歌上」に次の歌がある。

・三百六十一番

 さびしさはその色としもなかりけり槙(まき)立つ山の秋の夕暮

寂連

 

・三百六十二番

 心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ

西行

 

・三百六十三番

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ

藤原定家

 

 「秋の夕暮れ」を結句とした和歌である。たまたまとはいえ同じ結句になった三つの句に感銘を受けた撰者が、意図的に並べたものである。このため、それらを詠んだ三者を「三夕」と称するようにもなった。

 ここで、「三夕」がいかなる人物であるか、考えてみよう。

 いずれも平安時代末期から鎌倉時代初期の人物である。

 寂蓮は本名を藤原定長という。父は真言宗の僧侶である俊海で、藤原俊成の弟にあたる。寂蓮は藤原俊成の養子となり、出世するも、三十代で出家。後鳥羽天皇から絶賛されるほどの優れた歌人でもあった。

 西行は本名を佐藤義清という。藤原秀郷の八世の孫であり、二十三歳で出家すると、各地を放浪しながら多くの和歌を詠んだ。放浪の(あるいは漂泊のと言ってもいいが)歌人といえば松尾芭蕉種田山頭火が有名だが、彼が嚆矢とも言える。

 藤原定家藤原北家の出で、藤原俊成の次男にあたる。寂蓮の従弟ともいえる。辛酸を嘗めながらも正二位権中納言まで上り詰めた貴族であり、「小倉百人一首」の撰者としても名高い歌人でもある。

 

 さて、この三人の中にひとりだけ仲間外れがいる。

 これが、謎を解くみっつめの鍵となる「魚喰ふ」である。

 寂蓮と西行は出家したが、藤原定家だけは俗人である。定家も七十二歳で出家して「明静」という法名を得ているが、これは俗世間での役割を終えての隠居というべきもので、若いうちに出家して俗世間を早々と断った先のふたりとはかなり異なる。歌人としての定家は、やはり貴族であろう。

 さて、僧侶は基本的に肉食と、五葷と呼ばれる葱、ニンニク、韮、玉葱、ラッキョウなどを食することが禁じられている。

 肉には獣肉はもちろん、鳥肉、魚肉も含まれている。これは「殺生戒(アヒンサー:Ahiṃsā)」により、いかなる命も奪ってはならないという教えに沿って、僧侶が摂ってよいのは植物だけとなる。精進料理の悉くが、野菜や豆などの加工食品であることからも頷けるだろう(尤も、「見聞疑の三肉」というのもあるが、仏教の話を追求するものでは無いので割愛)。

 つまり、食事の時に僧侶である寂蓮と西行は、肉を食べることが出来ない。魚もだ。しかし、俗人である藤原定家は魚を食べることが出来る。

 「三人で」食事の時に「一人」だけ「魚喰う」ことが出来る「秋の暮れ」こと『三夕』とは誰か。

  その答えは、

  藤原定家

  というわけ。

 

 

 

 

小倉百人一首 歌かるた 標準取札

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