いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

似た名前

 文久2(1862年)、日本の幕末時代のこと。

 横浜にあるイングランドの駐日公使館に20歳の青年が母国からやって来た。通訳生として派遣されたが、日本語はまだおぼつかない様子であったが、『エルギン卿遣日使節録』によって日本に憧れを抱いていた彼にとっては、待望の仕事であった。

 彼の名前は、アーネスト=メイソン=サトウという。

 後に第六代駐日英国公使となる人物である。

 彼は後に薩道、あるいは佐藤愛之助とも名乗る。サトウという姓から日系人かあるいはその子孫ではないかと思った人もいるだろうが、まったく関係ない。ちなみに綴りは「Satow」。ロンドン生まれで生粋のイングランド人である。彼は後に、

 「私の姓が、日本人にも多い姓だと知って驚いた」

 というようなことを述べている。

 

 コニャック(ブランデーの一種)の銘品のひとつに、『ポール=ジロー』がある。

 これは造り手の名前を冠したものだが、ジローといっても次郎という名の日本人ではない。四百年以上も続くフランスの農家であり醸造家である。綴りは「Giraud」で、もちろん姓である。間違える人はほとんどいないだろうが、日本人の名前と似た姓が存在するのは、ちょっと面白い。

 

 プロレスラーのハルク=ホーガン氏が日本でも人気を博していた頃、「ハルク=ホーガンの砲丸投げ」というような言い回しが流行ったことがある。「Hogan」という姓の発音が、「ほうがん」とそっくりだからだ。アメリカ人には何のことやら分からなかっただろうが。

 

 日本語と似た発音の外国語は他にもいろいろある。姓ばかりを挙げたが、名前でも有名なものがある。

 日本人でナオミという名前は、直美、尚美などの漢字を宛て、それほど珍しい名前ではない。ナオミという外国人として日本でも有名なのは、イングランドのモデル、ナオミ=キャンベルだが、彼女は日本人ではない。ナオミ=ハリスやナオミ=ワッツも、イングランドの女優。綴りは「Naomi」で、日本人と同じだが、由来は『旧約聖書』まで遡ることが出来るほど、由緒正しく、歴史ある名前である。ユダヤ教圏やキリスト教圏においても、特に珍しくもない名前だ。

 『旧約聖書』で思い出したが、女子スキージャンプ選手に、日本に高梨沙羅選手、アメリカにサラ=ヘンドリクソン選手がいる。「サラ」同士で上位争いをしていると取り上げられたことがある。旧約聖書において、アブラハムの最初の妻で、イサクの母の名前をサラという。こちらも、日本でも海外でも特に珍しい名前というわけではない。

 しかし、ナオミ、サラなどの『旧約聖書』に基づく由来は知らなくとも、日本人と同じ名前の選手だというだけで、妙に親しみを感じるのはおそらく私だけではあるまい。

 

 森鴎外は子供たちの名前を付けるときに、海外でも通用するようにと、少々奇抜な名前を付けた。上から於菟、茉莉、杏奴、不律、類という。オットー、マリー、アンヌ、フィリップ、ルイに由来しているのだろう。現代日本でも、「キラキラネーム」などと呼ばれ、外国人の名前であるミカエル、シンディー、ヨシュア、ノアなどに漢字を宛てたものや、外国の用語であるポエム、メロディー、ライト、カオスなどにやはり漢字を宛てて名前を付けることが流行り、今も続いている。

 真剣に愛情を込めて名付けられたのなら良いが、そうではなく、単に流行か、外国語へに対する憧憬、あるいは奇抜さだけを狙ってのものであったとしたら、名付けられた子供の心情はいかばかりか。

 

 日本人の譲治という人が、日本では「Jouji」とサインしていたが、アメリカで仕事をするときに英語表記の「George」とサインして、「日本のジョージだ」と初日からみんながすぐに名前を覚えてくれたという話を読んだことがある。

 サラにしてもナオミにしても、あるいはジョージにしても、偶然の一致に過ぎない。

 比較言語学でみれば、まったくかけ離れた国であっても同じ発音の言葉が出てくることは(同じ意味であるとは限らないが)珍しくもない。寺田寅彦は、異なる言語圏においても、言葉の発音が似ていて、意味も近くなるような偶然の一致が起こる確率を三%程度としている。この数値がどこまで正しいのかは判断しかねるが、姓や名前がどれほど存在しているかを考えるだけでも卒倒しかねないほど膨大であると考えれば、たかが数個の名前が一致した程度では、驚くに値しないのかも知れない。

 だが、理性でそう言われても、妙に親近感が湧くのも事実。

 沙羅選手と同時にサラ選手を応援したくなり、ナオミさんが日本について話すのを聞くと心躍らされる。

 冒頭のアーネスト=サトウも、薩道あるいは佐藤と名乗ったのは自身が日本に愛着を抱いたからだろうが、同時に、当時の日本人たちも彼に親近感を抱いただろうと想像するに難くない。

 偶然の一致というものは、時に心を揺すぶられるものだ。