いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

寒食節と曹操

 「寒食節」とは何か、に触れるまえに、晋の文公について触れておこう。

 「晋の文公」とは誰か。『史記』や『春秋左氏伝』など、中国の春秋時代に興味のある人、あるいはひと昔前ならわざわざ説明する必要のない、子供の頃に学ぶ教養のひとつだったが、現代社会ではそうではなくなっているので、軽く触れてみよう。

 

 「晋の文公」という呼び方は後世のもので、彼の姓は姫(き)、名は重耳(ちょうじ)という。中国の春秋時代の人で、西暦でいえば紀元前696年に、晋の国に産まれた。

 彼の父・献公(これも後世の呼び方で、名は詭諸(きしょ))は子だくさんであったが、晩年になって驪姫(りき)という女性を愛し、彼女が産んだ奚斉(けいせい)を跡継ぎにしようと思った。そのため、第一後継者たる太子の申生(しんせい)は自殺に追い込まれ、重耳と弟の夷吾とは国外へ逃亡した。

 これは「驪姫の乱」と呼ばれる。

 その後の展開については、自分で調べるなり、知っている人に聞くなど各自お任せするとして、結果的には十九年もの長い流浪生活の末、国へ戻った重耳は晋公となった。「公」とは領主、君主の身分である。晋の国の公なので、晋公と呼ぶ。さらにその人の経歴によって死後に与えられるものが諡号で、彼の場合は文公、彼の父の場合は献公と呼ばれるようになった。

 そして、近隣の諸国との同盟の盟主たる「覇者」となったのである。

 さて、問題はその帰国後のことである。

 重耳が外出した時、門に表札がぶら下がっていた。そこにはこう書いてあった。簡単に訳すと、こうなる。

「龍は天に登ろうとした。五匹の蛇がそれを補佐した。龍は雲に登って、四匹の蛇はそれぞれ立派な家に住むことができた。しかし一匹の蛇はひとりそれを怨んで、ついに住むところを見失った」

 「龍」は重耳を指している。「龍」は雲の上の人、すなわち晋公という晋の国の君主となった。そしてそれを手助けしてきた人たちが五人いて、そのうちの四人は立派な家に住めるほどの高い地位に登らせてもらえたが、残りの一人は地位に恵まれなかったことを怨んで、住む場所すら失ったという。

 重耳は残り一人に思い当たる節はなかったが、人づてに、それが介推(かいすい)という人物だと知る。後に、「子」という尊称を込めて「介子推」とも呼ばれる人物である。

 介推は重耳と共に流浪を続けた一人ではあるが、側近ではなかったので目立たなかった。

 『十八史略』では「腿を裂いて、君に奉じた」とある。これを「自分の腿の肉を斬り裂いて、(食の足しとして)君主に捧げた」とする向きがあるが、それは違うだろう。そんなことをしたら、それ以上歩けなくなってしまう。長年、共に旅することなど出来なくなるはずだ。

 そうではなく、「腿の肉が裂けるほど歩き回って、(食べ物を探し出して)君に奉じた」と解釈すべきである。

 ともあれ、側近たちが顕官に就いたのに対し、介推は無視された。『史記』では、表札の言葉とは裏腹に、怨み言を述べることもせず、老母とともに緜上(めんじょう)という地の山へ篭り、それ以降は世俗との交流を絶ったという。重耳介推のことを知って自らの不明を恥じ、彼が篭った山を「介山」と名付け、「私の過ちをはっきりさせ、善人を表彰するものである」と言ったという。

 

 『十八史略』では、違う展開が書かれている。そこでは、重耳は介推の篭った山にたどり着くと、麓に火を放った。火と煙に包まれれば、介推が飛び出して来ると思ったのかも知れない。しかし介推と老母は遂に姿を現さず、木を抱いたまま焼死している姿が発見されたという。重耳はこれを恥じ、清明の前日には火を使わないよう厳命したという。

 これが『寒食節』の始まりとされる。

 

 寒食節では料理で火を使わず、その他の諸事でも火を使うことを止める。

 清明は二十四節季の五番目に当たり、冬至から百五日目、春分から十五日目にあたる。「百五の夜」といえば、寒食節の夜を指す。太陽暦でいえば、四月の四日か五日(その年によって変わる)付近になる。まだ少し肌寒い時期であり、火を熾す機会もまだ残っている頃である。

 介推を悼んでのこととされるが、実は信憑性は薄い。それというのも、この記述が『史記』にはなく、『春秋左氏伝』にも見当たらない。民間伝承に過ぎないのであろうか。

 では、寒食節の由来は何だろう。

 意見として多いものとしては、春めいてきて火の扱いが冬に比べてぞんざいになり、風雨の多い季節でもあるので、火事を起こすことが多くなったので、それを戒めるために敢えて火を使わないようにしたのではないか。あるいは、火災で亡くなった人たちを悼むものではないか。あるいは、一度火を絶ち、その後に使う火(新火と呼ぶ)で春を出迎える習慣に由来するという意見もある。あるいは、火に対する感謝の気持ちとして、敢えて火を使わないことで、火の恩恵を皆で感じようとする祭りや儀式のようなものとする意見もある。

 ともあれ、寒食節の前後二~三日ほどは火を絶つという習慣は、現在まで引き継がれている、歴史ある風習なのである。

 

 さて、この長く続く風習を、紀元二世紀頃に停止させようとした人がいる。

 『三国志』で知られる、魏の武帝こと曹操(そうそう)である。

 『藝文類聚』の「寒食」の項目に、曹操が出した「明罰令」が載せられている。要約すれば以下の通り。

「聞けば、太原、上黨、西河、鴈門の一帯では冬至から百五日後になると、みな火を絶やして寒食をするという。介子推の伝承のようだ。北方の極寒の地では、老人、幼少、虚弱な者がこれに耐えられず、病になるという。政令により、寒食を取りやめることとする。もしこれに反したら、家長であれば半年の(懲役)刑罰、官吏であれば百日の刑罰、県令であれば一ヵ月分の減俸とする」

 『三国志』というと、武勇に秀でた者たちの伝承や、智謀の士の駆け引きなど、華々しい活躍が注目されがちだが、政治の乱れや天変地異などで人々は貧困や飢えに苛まれ、山賊などの跋扈で安心した生活を送ることも叶わなくなり、生まれ育った土地を離れて流民となる人たちが大勢いた時代でもある。曹操屯田制によって、流民や兵士に田を与えることで、農業生産高を上昇させつつ、生活の安全を保障した政治家でもある。だからこそ、寒食の弊害にも気付いたのだろう。安泰な時代ならともかく、力の無い者が次々に命を落とすような時代だからこそ、厳しい罰則を科してでも、中止させたかったのだろう。

 

 人間の文化は、火を使うことから始まったという人もいる。

 火を使うことで受ける恩恵、火を使うことで受ける被害。もし火が無かったらどうなるのか、たまにはそんなことを考えてみるのもいいかも知れない。