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宋襄の仁

  『宋襄の仁』という言葉がある。

 学研『国語大辞典』には「(敵に対する)不必要なあわれみ。無益ななさけ」とある。ちなみに、宋襄とは宋の襄公という人物のこと。

 詳しくは後で述べるが、楚の成王が軍勢を率いて攻めてきたとき、楚軍が不利な状況にも関わらず、襄公は正々堂々と戦おうと言い出し、敵の準備を待ってから戦いに挑んでかえって破れてしまったことによる。

 理想主義者を笑ったり、お人よしも場合によると諫める場合に用いられる話だが、本当にそうだろうか。『史記』を著した司馬遷は、この記事を書いた後にその行為を絶賛している。これはどういうことだろうか。

 では、具体的な内容へ。

 

 『春秋左氏伝』によれば、僖公二十二年十一月己巳朔日とある。紀元前638年、時代区分でいえば春秋時代にあたる(ここは重要)。

 『泓水の戦い』と呼ばれる。

 細かく書くと長くなるので、以下、左伝を参考に補足を含め、端折りながら紹介していこう。

 

 楚が宋に侵攻して、(宋と衛に攻められていた)鄭を救援した。襄公が戦おうとすると、大司馬の公孫固は諫めた(『史記』では、諫めたのは異母兄で左師(宰相格)の目夷)。

「天が見捨てたのです。今更(天下を争って国を)復興しようとしても無理です」

 公は聞き入れなかった。十一月己巳朔日、襄公は楚の軍勢と泓水で会戦した。宋軍は隊列を整えたが、楚軍は泓水を渡っている途中だった。司馬は言った。

「あちらは多勢、こちらは寡勢。渡り終わらないうちに攻撃を仕掛けましょう」

「それはだめだ」

 楚軍は泓水を渡り終わったが、隊列は整っていない。司馬が攻め込むようにと言ったが、襄公は聞き入れない。

 楚軍が陣形を整え、攻撃を仕掛けると、宋軍は大敗した。襄公は腿に矢傷を負い、近衛兵は全滅した。

 国の人たちがこぞって襄公の敗戦の責任を咎めた。公は言った。

「君子は負傷者を重ねて傷つけず、老兵は捕虜にしない。古の戦法では、険隘に乗じて奇襲はしない。わたしは亡国(商)の子孫だが、隊列が整わない敵には攻撃を仕掛けるようなことはしない」

 子魚(目夷)は言った。

「あなたは戦いというものが分かっていない。強敵が剣隘の地で隊列が整わないのは天の助け、虚を衝いて攻撃しても構わない、それでも勝てるかどうか。それに現在の強い敵はすべて我らの敵。たとえ老人でも、捕まえれば命を奪う。白髪だろうが、かまうものか。恥を知らせ、戦闘を教えるのは敵を殺すため。敵を傷つけて、それでも死ななければ、さらに傷つけるのは当然。さらに傷つけるのが嫌なら、最初からしなければいい。白髪の者を気にするなら、最初から降伏してしまえばいい。三軍は有利に戦うべきで、(進撃で)鐘を鳴らすのは士気を鼓舞するため。有利なときに使うなら、剣隘だろうが奇襲だろうが構わない。鐘を鳴らして指揮を鼓舞したら、相手の陣形が整わなくても、かまわない」

 

 補足として、宋という国は商の末裔である。

 「商」は周のひとつ前の王朝で、日本では「殷」と呼ばれることが多い。商の最後の王は帝辛、受王、あるいは紂王と呼ばれている。周が商を滅ぼした後、紂王の子の禄父は土地を与えられたものの叛旗を翻し、その後に紂王の異母兄である微子に与えられた国が「宋」である。

 襄公が「わたしは亡国の子孫」と言っているのは、このことである。ちなみに、司馬の最初の言葉も「天が見捨てたのです」と訳したが、より詳しくは「天が商を見捨てたのです」となる。商はかつて天下の主だったが、天から見放されたために国を失い、宋としてかろうじて生き残ったものの、もはや天下の主として返り咲くことはないだろうから、楚と天下を争うようなことはやめなさいという意味だ。

 これは「天命思想」に基づく。これも詳しく述べると長くなるので、今回の要点だけ触れると「人々を統治するのは『天』が定める。統治者が不徳であれば、『天』は彼を見放し、新たに「天命」を授かった者が治める」。

 『天』は、西洋の最高神とは違って形を持たず、直接人間に影響を及ぼすことはないが、人々を見守っている存在である。だから、悪いことをしたときに受ける災害を「天罰」といい、人間世界全体を天の下にあるものとして「天下」という。

 かつて夏王朝は天下を治めていたが、天から見放されて滅び、天に選ばれた商(殷)が統治者となった。その商が天から見放され、天が周を選んで統治者とした。そして一度見放されたものは、二度と返り咲くことはない。だから、商の一族である宋は、天下を治める立場に返り咲くことはない。そういう思想である。

 

 この話は『史記』「宋微子世家」にも載せられている。『史記』では、列伝などの後に「太史公曰く」として、自信の感想を述べているが、宋の襄公について、以下のように述べている。

「襄公は泓水で敗れた。だが、君子の中にはこれを多とする(高く評価する)ものもいる。中国で礼儀が欠けているのを心苦しく思って、これを誉めるのである。襄公の礼儀・謙譲の心があればこそである」

 この絶賛は、後世の人に不思議さを覚えさせる。戦争で敗れれば、国内は蹂躙され、疲弊する。人々も犠牲になり、実際、襄公はこの時の傷が原因で、翌年の夏五月に卒去する。礼儀を重んじたからといって相手が遠慮してくれるわけでもない。普段の生活や外交の場なら礼儀作法は必要だろうが、戦争の場面である。司馬(あるいは目夷)の言葉こそ正しいはずだ。そう思わないだろうか。

 実は、ここに誤解がある。当時の感覚でいえば、襄公の態度は褒めたたえられ、司馬(あるいは目夷)の言葉は卑怯者の発想なのだ。

 今回、『史記』ではなく『春秋左氏伝』を用いたのは、これを言いたかったためである。

 では、例を挙げよう。ちなみに「戦車」、「車」という言葉が出てくるが、現在のような鉄製でキャタピラーが付いた巨大な乗り物ではもちろん無く、戦闘用馬車(チャリオット)である。また、「君子」という言葉も、立派な人物という意味で、必ずしも君主を指すわけでない。

 

 成公二(紀元前589)年、斉と晋が戦った。

 晋の韓厥(かん・けつ)が戦車に乗って斉の頃公の戦車に迫ると、頃公の御者が「あの人物に矢を射かけなさい。君子ですよ」と言うと、頃公は「君子と分かっていて矢を射るのは無礼だ」と言い、周りの者を狙うだけで留めた。

 韓厥が、動けなくなっていた頃公の車に迫ると、韓厥は車から降りて頃公の前に再拝し、頭を地面に付け、酒杯と玉壁とを献上した。

 

 成公十六(紀元前575)年、晋と楚が戦った。

 晋の郤至(げき・し)は、楚の共王の部隊と三度遭遇したが、そのたびに車から降りて兜を脱いで走り去った。共王が使者を出して「さきほどの方は君子ですね。お怪我あありませんでしたか」と尋ねると、郤至は「わたしはあなたの臣下ではないので、お言葉を賜ることはできませんが、こちらに怪我はなく、ご心配には及びません」と、使者に対して三度身体を曲げて、礼を述べた。

 

 同じ戦いにおいて。

 晋の韓厥が(楚の同盟軍の)鄭の成公を追っていた。韓厥の御者が「もっと速度を上げましょうか」と言ったが、韓厥は「わたしは(かつて斉の頃公を追い詰めたことがあるから)二度も国君を苦しめるようなことをしてはいけない」と、追撃をやめた。

 その後に郤至が鄭の成公を追っていたが、車右(に乗っている猛者)が「兵士たちに進路を阻ませたら、わたしがあの車に乗って、(成公を)引きず下ろしてみせます」と言ったが、郤至は「国君を傷つけると、あとで天罰を受けるぞ」と言って、やめさせた。

 

 これらは、宋襄の仁から50年以上も後の出来事である。いずれも、相手の優れた人物や君主などを捉える機会があったにも関わらず、礼儀を重んじてやめたのである。

 他にもこの時代の戦争における常識として、相手の国に攻め込んでも降伏すれば許し、滅ぼすようなことはめったにしない。戦場に出られる兵士は身分を伴うもので、身分のない雑兵が参加するようなことはない。戦が長引いて早々に決着を付けたいと思った時は、双方から勇者を二人ずつ出して、一騎討ちをさせる。仮に一騎討ちに負けたとしても、残りの軍勢で敵に襲いかかるような卑怯な真似はしない。

 まだ他にもあるが、これらは春秋時代の常識で、必ずしも守られたとはいえない場面も多々見受けられるが、どんな手を使ってでも勝てばいいという発想が生まれるのは、実力主義が横行する戦国時代からである。司馬や目夷の発想は、当時の常識に反している。

 宋が不運だったのは、相手が当時の常識など守らない、相手に勝てるならどんな手でも使い、優れた人を貶め、弱い国を次々に滅ぼして強国になった楚だったことだ。楚の君主や武将などが当時の常識に反する(当時では卑怯な)行動や発言をし、宰相格や知恵者が礼譲を守れとたしなめる場面も多々あるのだが、国の方向性が力政に傾いている向きは否めない。だからこそ、司馬あるいは目夷が、襄公を急かしたのだろう。

 

 尤も、余談がさらに続くことになるが、襄公とて理想を追い求めて清廉潔白、野心のない人物だったかというと、そうとも言い切れない話が載っている。

 僖公十六(紀元前644)年。宋で隕石が落ち、大風が起きたので、たまたま訪れていた周王の使者に吉凶を訪ねると、「魯で大きな喪が行われ、来年には斉で乱が起こります。貴国は諸侯の支持を得られますが、最後がよくない」と答え、退出してから他の人に「おかしなことを聞くものだ。災害は人の吉凶とは関係ない。吉凶は人に決まるものなのに」と呟いたという。

 僖公十九(紀元前641)年。襄公が鄫の君主を捕まえてこれを犠牲にして祭祀を行ったため、目夷が言った。「犠牲に使う動物は決まっているのに、人間を犠牲にするとは聞いたことがない。まして国君を捕まえて犠牲にするとは。覇者になろうとしても無理だ。幸せに死ねたら、まだましだ」

 思慮が足りないのある。そのくせ、楚との戦いでは仁を重んじた。これでは、後世に笑われても仕方ないと思うのだが、どうだろうか。

 

 時代は飛ぶが、漢の武帝に仕えた汲黯(きゅう・あん)の話を思い出した。

 汲黯は相手が誰であろうと容赦なく厳しい言葉を投げかけ、武帝に忌み嫌われた人物だが、武帝儒学者を招こうとしたときに、こんなことを言っている。

「陛下は内心では多欲なくせに、外面だけ仁義ぶっている。いまさら、堯や舜のような聖人の真似をしても無駄なことです」

 

 

 

春秋左氏伝〈上〉 (岩波文庫)

春秋左氏伝〈上〉 (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1988/11/16
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