いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

名もなき草

 『名もなき草』と題して、名もない草に咲く花は美しく、美しいものはどこにでもあるものだと言ったのは小川未明である。

 名家の生まれでなければ、気品が備わらないとは言えない。美術学校を出ていなければ、巧い絵が描けないわけではない。所作が行き届いている人の何気ない仕草は、美醜を超えて心地よい。

 

 「名もなき花などない、名も知れぬ花だ」と言ったのは、植物学者の牧野富太郎である。

 道端で見かける雑草は、名前が無いわけではなく、名前はあるが、私たちがそれを知らない植物でしかない。あらゆる植物には名前が付けられているのだ。

 『学芸百科事典』(旺文社)で「雑草」の項目を引いてみる。

「雑多な草、栽培した草以外の草、欲しない所にはえる植物などのこと。有用なものも望まない所にはえれば雑草となる。農業上では害草をいうので、『益よりも害が大きく、欲しない所に侵入する習性をもつ植物』との定義がよい」

 とある。雑草と呼ばれる植物は四百種類以上あるようだが、もちろん、すべての草に学名がある。私たちが知らず、気にしていないだけだ。

 

 『雑草魂』という言葉がある。

 プロ野球選手の上原浩治氏が座右の銘としていることでも知られている。決して恵まれた環境ではなく、いやむしろ、恵まれない環境に生まれ育ちながらも、努力を惜しまず苦悩を乗り越えて培われた根性でもって、いわゆるエリート ー環境に恵まれて当然のように上り詰めてきた人たちー と対等に争い、第一線に立ち続ける。その意気込みを表したものである。

 桜や梅、薔薇や牡丹などが ―植物として真に恵まれた環境下にあるかどうかはともかく― 誰もが認める華やかさがあり、誰もが集まってその美を称えるのに対し、雑草を美しいとみなして称える人はいないだろう。

 しかし、雑草にも名があり、生きている。

 まして、人間であれば。

 

 中卒であっても大卒顔負けの博識な人に出会ったことがある。若い頃は運動が苦手だったという、当人は老年に入りつつも、プロも驚くほど走り方の巧みな市民ランナーもいる。数えきれないほどの出版社に数えきれないほどの原稿を持ち込んでもまるで認められず、ネットで自作の漫画を公開し続け、遂には出版社から頼み込まれて作品を出稿することになった漫画家もいる。その分野に無知であったがために、既成の概念に捉われず、独特の解釈を投じて文学賞を獲得した小説家もいる。

 

 タルクィニウス=プリスコは古代ローマ王政の第四代目ではあるが、ローマ人ではない。父は亡命ギリシア人で、母は高家エトルリア人だったが、貴種優位で保守・閉鎖的なエトルリアにおいては混血児に芽が出ないことは明らかで、当時は新興都市国家のひとつに過ぎなかったローマへと逃れた。詳細は省くが、彼は王となり、見事なまでの治世をもたらし ―時には人気採り政策を図ることもあったが― ローマ市民に安寧をもたらした人物である。

 

 一流大学卒だから博識だろう、有名な高校からプロ選手になったのだから一流だろう、祖父や父が偉大だからきっと優れた人物なのだろうと、履歴や家系で相手を過大評価するのは容易い。

 しかし、それを踏まえずに、相手の実力を求めるのは難しい。

 

 『嚢中の錐』という言葉がある。

 中国の戦国時代、西暦でいえば紀元前三世紀頃の趙という国に、平原君と呼ばれる趙勝という人がいた。食客と呼ばれる、無位無官ではあるが才能のある居候を数千人も集めていたという。

 彼が、他国を恐れさせる強国となっている秦に対抗すべく、楚の国と同盟を結ぶための使者として派遣される際、二十人の食客を連れていくことにしたが、十九人まで決まって、あと一人が決まらない。そこへしゃしゃり出て来たのが毛遂という人物。食客になって三年経つというが、平原君は顔も覚えていなかった。思わず、言う。

「錐を嚢の中に入れれば、嚢を突き破って先端を出す(有能ならすぐに表に出るはずだ)。あなたは三年もここにいたというが、パッとしなかったのは、能力がないからではないか」

「では嚢の中に入れてください。先端どころか、柄まで飛び出ますよ」

 平原君は納得しかねたものの、同行させることにした。楚での交渉は難航し、楚王は言葉を濁すだけで頷かない。十九人の食客たちも、おろおろするばかり。そこでいきなり飛び出したのが毛遂。平原君と向かい合ってる楚王の前に、飛び込んだ。

「何をごちゃごちゃ悩んでいるのですか。大国である楚が、白起(秦の将軍)ごときこわっぱに怖れを成してるとは趙の人たちすら恥ずかしいと思ってるのに、あなたは恥ずかしくないのですか。趙と同盟を結ぶのは趙のためではない。楚のためですよ!」

 この勢いに押され、楚王は趙と同盟を結ぶ決意をする。任務を果たして帰国した平原君は、毛遂を最高の待遇として扱うことにした。後に訪問客にこう言ったという。

「私は人物鑑定に自信があった。でも、もうやめよう。毛遂先生の存在を見抜けなかったのだから」