いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

無人レジで考えた

 行きつけのスーパーには、有人レジと無人レジとが設置されている。

 有人レジはその名の通り、買いたい製品をレジの店員が機械を使ってバーコードを読み取らせ、値段を計算していく。計算の終わった商品は会計済みのカゴへ移され、最後に客が合計金額を支払う。

 無人レジは店員がおらず、客が自分で機械にバーコードを読み取らせ、商品は自身の手でマイバッグかレジ袋へ入れていき、合計金額を機械へ投入する。

 バーコードの機械を扱う作業と製品の移し替えとを、店員が行うか、客が行うかの違いとなる。

 新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の爆発的な広まりにより、それまでは試験的だった無人レジの設置を検討している店も増えているようだ。

 店員と客との接触の機会が減り、感染リスクの軽減を見込めるからとのこと。

 

 だが、

 

 それだけでないメリットがいくつか感じられた。

 

 ひとつは、人件費の削減。

 有人レジではひとつのレジにひとりに店員が必要で、商品の移し替えにも手間がかかる。これに対して無人レジでは複数のレジを備えながらも、機械トラブル、酒の販売に対する年齢確認などに必要とされる店員の数は少なくて済む。実際、私の通っているスーパーでは12台の無人レジに対し、常時1~2人で済んでいる。本来なら12人必要なのに、である。

 

 ふたつめは、接触トラブルの回避。

 店員も客も人間なので、相手の動作や言葉を気にしてしまい、時には些細なことに怒りが込み上げて、トラブルが発生する可能性もある。レジの対応が遅い、レジの列が混雑していて苛々させられた、相手の言葉遣いが気に入らない、など。

 あるいは、財布からお金を取り出すのに手間取って、列を作っている人たちを苛立させる(あるいは苛立させてはいないだろうかと不安に思う)という状況もある。

 そういったトラブルも、機械を通せば少しばかり軽減されるのではなかろうか。

 

 みっつめは、これは最初のとは真逆の発想なのだが、人材を有意義に使うことができるのではなかろうか。

 これを語る前にひとつ、日本のスーパーなどで当たり前に行われていることについて、どうしても納得がいかないことがあるので、聞いて欲しい。

 

 『なぜ、レジの店員さんは立って仕事をしているのか?』

 

 それが当たり前だと思う人は多いかも知れないが、外国では椅子に座ってレジを行ったり、商品をレジ袋へ入れる作業をさらに別の店員が行っているところもある。それどころか、店員と客とが談笑して待ち時間が長くなるのが当たり前だからと、待っている人ものんびりとスマホを眺めたり、他の客と談笑しているところもある。

 日本型のレジは、世界共通というわけではないのだ。

 メリットは、簡易な仕事であれば支障をきたすことのない軽度の障碍者や、足腰の弱った高齢者でも作業が出来る。定年後も働くことの出来る社会、いや、働かざるを得ないような社会で、さすがに体力の衰えを感じる高齢者でも、安心して仕事が出来るのはなかろうか。

 デメリットも探せばいくつかあるけど、「作業の効率化=利益とは限らない」とだけ提言して、「のんびりした買い物」もいいと思うので、推奨したい。

 

 店員とあまり接したくない、他人の目線が気になる、自分のペースで会計を済ませたい、あるいは急いで会計を終わらせたい人は無人レジで。

 ゆっくりでも、あるいは言葉を交わしながらでも構わない、急ぎではない人は有人レジで。

 そのような棲み分けも出来るのはないだろうか。

 

 そう考えながら、昨日も今日も、無人レジでピッ、ピッと、マイペースに会計を進めていく。

 缶チューハイ6本ケースに酒のつまみセットって、悪いことをしてるわけじゃないはずなのに、なぜか視線が気になってしまう。でも、そんなの気にしなくていいもんね。 そして明日もあさっても、マイペースにピッ、ピッと買い物を進めて……。

 あ、デメリット、あったわ。

 ついつい、買いすぎちゃうこと。

 冷凍食品も補充しないと、そうだ牛乳も残りわずかだし。歯磨き粉もいるな、新しいふりかけがあるじゃないか、喉が渇いたのでコーヒーが飲みたいな、アニメコラボで限定カードがおまけで付いてくるポテチだと?!……と、店内を歩いているうちに品数が増えて、かご一杯になっちゃう。

 時には視線を気にすることも大切かな。

 でも人嫌いな私にとって、無人レジは神の賜物です。

世界のJOKEから - 003

ⅩⅠ.中国の戦国時代、斉の宣王が艾子(がいし)という人物に尋ねた。

「かつて獬豸(かいち)という怪物がいたそうだが、それはどのようなものだったのかな」

「聖人として知られる堯(ぎょう)の時代にいた怪物で、朝廷に住み、邪悪な臣下を襲って食べてしまったとのことです。もし獬豸がここにいたら、餌を与える必要はないようです

 

ⅩⅡ.「禁じられていないということは、許されているということではない」

マルクス=トゥッリウス=キケロ

 

 ⅩⅢ.「たまたま近くに来たんで立ち寄ったんだが、この間貸したアーティストのアルバム、どうなってる?」

「ごめんごめん。実は友達が貸してくれって言って、今は無いんだ。すぐにいるのかい?」

「いや、俺はいいんだ。俺にあのアルバムを貸してくれたやつが、アルバムの持ち主が返してくれって言ってきたって言っててね」

 

ⅩⅣ.ある酔っぱらいが馴染みの居酒屋にやってきた。

「ちょっと聞きたいんだが、二時間ぐらい前にスズキ君は来てなかったか。ほら、いつもあそこの席に座る」

「はい、お見えになりました」

「もうひとつ聞きたいんだが、その時俺は一緒だったかな?」

 

ⅩⅤ.「この間、TVを見てたら『たばこの吸いすぎはガンの元』って言ってて、たばこの害についていろいろ言ってたんで、やめることにしたんだ」

「たばこをやめるのか。ヘビースモーカーも、ついに禁煙か」

「いや、TVを見るのを」

 

世界のJOKEから - 002

Ⅵ.「我が国の首相は、程度が低すぎる。猿と何ら変わりがない」

「何という暴言だ。猿に謝れ!」

 

Ⅶ.アメリカ人「スコットランドの人たちはとても酒飲みだと聞いたけど、一体どれくらい飲めるんだい?」

スコットランド人「おごってもらえるなら、どれだけでも」

 

Ⅷ.ある金持ちが、自分に媚びようとしない貧乏な男にこう言った。

「誰もが私に媚びるのに、なぜお前はそうしないのか?」

「あんたが金持ちだろうと、俺には関係ない。媚びる理由なんてない」

「では、私の財産の半分をやろうと言っても、媚びないのか」

「それなら、あんたと俺とは同じ程度の金持ちになるだけだ。同等であれば、媚びる理由はない」

「では、私の全財産をやろうと言ったら、さすがに媚びるだろう。違うか?」

「そうなったら、オレが金持ちになって、あんたは貧乏になるだけだ。オレがあんたに媚びる理由なんてない」

 

Ⅸ.かつて、作家の野坂昭如が言った。

「歌手な名前の中にドレミファソラシドが入ってると大成功するそうで、ミソラなんてのは最高なんです。ノアサアキユキなんてのは、一つも入ってません」

 

Ⅹ.会社から帰ってくるや、すぐに飲みに出掛けてしまう夫がいた。その際、夫は妻に「先に寝てなよ、3人の子供たちのママちゃん」

 と、からかうのが常だった。

 ある日、同じように夫が

「先に寝てなよ、3人の子供たちのママちゃん」

 とからかうと、妻は静かに答えた。

「ええ、そうするわ。1人の子供のパパさん」

 その日以降、夫が飲みに出掛けることはなくなった。

世界のJOKEから - 001

 世界のJOKEから、思い出すまま、手あたり次第に。

 

Ⅰ.とある高級レストランで、二人の実業家たちが論争していた。結論が付かず、コインを投げて裏表の賭けで取り合えず終わらせようとポケットを探ったが、あいにく小銭がない。そこでウェイターに十セント硬貨を借り、話を決着させたが、コインを返すのを忘れたままになっていた。彼らは食事を終え、勘定書きを見たところ、第一項目に次のように書かれていた。

「十セント硬貨貸出料、十五セント」

 

 Ⅱ.子供たちが川辺で野球をしていた。通りがかった男性が腰を下ろして試合を眺めながら、そばにいた子供に聞いた。

「得点はどんな感じ?」

「30対0だよ」

「それじゃあ、もう勝ちは決まったようなものだな」

「そんなことはないよ」

 子供は振り返って言った。

「まだ1回の表だからね。あっちが逆転するチャンスはまだあるってわけさ」

 

Ⅲ.あるケチな男が川で溺れそうになっていた。

 その息子が大声で助けを呼んでいたが、男は言った。

「銀貨三枚までだ。それ以上はビタ一文出さんぞ!」

 

Ⅳ.あるケチな男が机を作らせたが、できるだけ材料を節約しろと言った。そこで大工は、「足は二本だけにしましょう。片側は壁にくっつければ大丈夫です」と言ったので、その通りのものを作らせた。

 ある時、月が綺麗な夜だったので机を外へ出して、月を眺めながら食事をしようと思ったが、二本足の机では倒れてしまう。そこで大工を呼んで、

「これでは使い物にならない」

 と言ったが、大工は答えた。

「その通りです。家の中でならどんな節約もできますが、いざ外に出ればそんな訳にはいかないのです」

 

Ⅴ.ある女性船員の日記。

月曜日:船長と夕食を共にする

火曜日:船長と甲板で一日を共にする

水曜日:船長から、いかがわしい申し出をされる

木曜日:申し出を断るなら船を沈めるぞと脅される

金曜日:二百人の船員たちの命を救う

 

杞憂

 『列子』「天瑞」にある話。

 杞(き)の国の人は、天地が崩壊して、身の置きどころがなくなるではないかと憂い、寝食もままならなかった。その人が憂いているのを知って気にかかかった人が、彼の所へ赴いた。

「天は、気が積もったものに過ぎない。気の無いところはない。身体を屈伸させ、呼吸をし、いつも天の中にいて止むことはない。どうして崩壊するかも知れないと憂うのか」

「天は気の積もったものだとして、太陽や月や星は墜ちてこないのか?」

「太陽や月、星などは気の中にあって光り輝いている。もし墜ちてきたとしても、当たって傷を負うようなことはない」

「地は崩れないのか?」

「地は土が積もったものに過ぎない。四方を塞いでいて、土の無いところはない。歩いたり、飛び跳ねたりして、いつも土の上にいるではないか。どうして崩壊するかもなどと憂うのだ」

 その人は大いに喜んだ。助言した人も大いに喜んだ。

 

 後半部は省略。

 大まかに言うと、長蘆子という人物がその話を聞いて「天地というのは計り知れない。いずれ天地も崩壊する時が来るかも知れない。天地が崩壊する場面に出会ったらどうしようかと悩んでもおかしくない」というようなことを言うと、列子が笑い飛ばして、「天地は崩壊するかも知れないし、崩壊しないかも知れないが、我々だっていつ死ぬのか分からない。どうせ天地と一緒にいなければならないのだから、その時のことを今から心配しても仕方ないだろう」と返す。

 問題は前半部の話で、天地が崩れたらどうしようかという、自分ではどうにもならないことを常に心配している人の話で、「心配しなくても構わないことに不安を抱くこと」や「取り越し苦労をすること」を、

 杞人之憂

 というようになった。日本では

 杞憂

 と表現する。

 

 ここからは余談なのだが、何故「杞」の人なのだろうか。

 杞の国は、夏(か)王朝の末裔である。

 夏は商(殷)のひとつ前の王朝で、杞についての詳しい履歴は不明であるが、商が夏を滅ぼしたときに、一族に宛がった国であろうと思われる。周が商を滅ぼしたとき、紂王の異母兄である微子に宋の国を宛がった例もある。なぜそんなことをするかといえば、子孫を滅ぼしてしまうと先祖を祀る者がいなくなり、先祖の霊が祟りを起こすと考えられてきたからである。杞は周が商を滅ぼした時期に一旦断絶するも、やがて再興され、小国として細々と生き延びるものの、楚の恵王の手によって紀元前445年に滅んでいる。

 なぜ杞なのか。

 実際にそのような人がいたというなら話はそのままだが、これが創作だとすると興味深い。この話を聞いた人が「杞の人は浅はかだ」と苦笑する姿が目に映るようだからだ。

 『杞憂』の杞にしても、『宋襄の仁』の宋にしても、かつては天下の主として栄耀栄華を極めながらもついには滅び、今では小国として大国にこき使われるような存在に成り下がっている。ふんぞり返って人々を見下していた存在が、逆に周りの視線に怯えながら見下されているのだ。その様子を嘲笑したいという下卑た心情から生まれた話なのかも知れない。

 日本の戦国時代でも、遠江駿河三河に一大勢力を築いていた今川義元が死ぬと、その子の氏真は国を失い、宿敵である織田信長の眼前で蹴鞠を披露して、武家の心を忘れたと揶揄されている。今川義元も、昔は名家の家柄にあぐらをかいているだけの凡庸な人物のように思われていたことがあるが、主に小和田哲夫氏の研究発表などによって、現代では名君としてその名が知られている。だが氏真については、徳川家康の独立もあいまってか、器量の狭い、低能なくせにプライドばかりが高いお坊ちゃまという印象が拭い切れていないように思われる。

 あるいは、美濃の斎藤道三は一代で(親子二代説もあるが)美濃国を手中に収め、織田信長の将来性を買って娘を嫁がせたことでも知られる。その子の義龍は信長が何度挑んでも攻略を許さないほどの大器であったが、孫の龍興は家臣たちに次々に見限られ、ついには国を失っている。実際には、龍興は国を失った後も畿内で豪族たちと結び付いて信長を散々に苦しめ、キリスト教の宣教師たちを唸らせるほどの頭脳明晰ぶりを披露しているのだが、あまり知られていない。逆に、竹中半兵衛重治がわずかな手勢で稲葉山城を奪取した話とあいまって、斎藤龍興といえば凡庸で怠惰という印象が強いのではないだろうか。

 かつては国主として威張っていたのに、あるいは祖父や父はあんなにも優れた人物だったのに、情けないことだと落胆すると同時に、嘲弄する。

 『宋襄の仁』の襄公の話は歴然たる事実であるが、それを語り継ぐ人の間に、浅はかなことだと笑い飛ばしたいという気持ちがあったとしても不思議ではない。

 

 人間には、優れた人間を尊敬し、手本としたいという気持ちもあるが、愚かな人間を罵倒し、見下したいという気持ちもある。褒められた話ではないが、そんな気持ちから生まれる言葉もあると知っておくのも、人間観察には必要なのかも知れない。

 

宋襄の仁

  『宋襄の仁』という言葉がある。

 学研『国語大辞典』には「(敵に対する)不必要なあわれみ。無益ななさけ」とある。ちなみに、宋襄とは宋の襄公という人物のこと。

 詳しくは後で述べるが、楚の成王が軍勢を率いて攻めてきたとき、楚軍が不利な状況にも関わらず、襄公は正々堂々と戦おうと言い出し、敵の準備を待ってから戦いに挑んでかえって破れてしまったことによる。

 理想主義者を笑ったり、お人よしも場合によると諫める場合に用いられる話だが、本当にそうだろうか。『史記』を著した司馬遷は、この記事を書いた後にその行為を絶賛している。これはどういうことだろうか。

 では、具体的な内容へ。

 

 『春秋左氏伝』によれば、僖公二十二年十一月己巳朔日とある。紀元前638年、時代区分でいえば春秋時代にあたる(ここは重要)。

 『泓水の戦い』と呼ばれる。

 細かく書くと長くなるので、以下、左伝を参考に補足を含め、端折りながら紹介していこう。

 

 楚が宋に侵攻して、(宋と衛に攻められていた)鄭を救援した。襄公が戦おうとすると、大司馬の公孫固は諫めた(『史記』では、諫めたのは異母兄で左師(宰相格)の目夷)。

「天が見捨てたのです。今更(天下を争って国を)復興しようとしても無理です」

 公は聞き入れなかった。十一月己巳朔日、襄公は楚の軍勢と泓水で会戦した。宋軍は隊列を整えたが、楚軍は泓水を渡っている途中だった。司馬は言った。

「あちらは多勢、こちらは寡勢。渡り終わらないうちに攻撃を仕掛けましょう」

「それはだめだ」

 楚軍は泓水を渡り終わったが、隊列は整っていない。司馬が攻め込むようにと言ったが、襄公は聞き入れない。

 楚軍が陣形を整え、攻撃を仕掛けると、宋軍は大敗した。襄公は腿に矢傷を負い、近衛兵は全滅した。

 国の人たちがこぞって襄公の敗戦の責任を咎めた。公は言った。

「君子は負傷者を重ねて傷つけず、老兵は捕虜にしない。古の戦法では、険隘に乗じて奇襲はしない。わたしは亡国(商)の子孫だが、隊列が整わない敵には攻撃を仕掛けるようなことはしない」

 子魚(目夷)は言った。

「あなたは戦いというものが分かっていない。強敵が剣隘の地で隊列が整わないのは天の助け、虚を衝いて攻撃しても構わない、それでも勝てるかどうか。それに現在の強い敵はすべて我らの敵。たとえ老人でも、捕まえれば命を奪う。白髪だろうが、かまうものか。恥を知らせ、戦闘を教えるのは敵を殺すため。敵を傷つけて、それでも死ななければ、さらに傷つけるのは当然。さらに傷つけるのが嫌なら、最初からしなければいい。白髪の者を気にするなら、最初から降伏してしまえばいい。三軍は有利に戦うべきで、(進撃で)鐘を鳴らすのは士気を鼓舞するため。有利なときに使うなら、剣隘だろうが奇襲だろうが構わない。鐘を鳴らして指揮を鼓舞したら、相手の陣形が整わなくても、かまわない」

 

 補足として、宋という国は商の末裔である。

 「商」は周のひとつ前の王朝で、日本では「殷」と呼ばれることが多い。商の最後の王は帝辛、受王、あるいは紂王と呼ばれている。周が商を滅ぼした後、紂王の子の禄父は土地を与えられたものの叛旗を翻し、その後に紂王の異母兄である微子に与えられた国が「宋」である。

 襄公が「わたしは亡国の子孫」と言っているのは、このことである。ちなみに、司馬の最初の言葉も「天が見捨てたのです」と訳したが、より詳しくは「天が商を見捨てたのです」となる。商はかつて天下の主だったが、天から見放されたために国を失い、宋としてかろうじて生き残ったものの、もはや天下の主として返り咲くことはないだろうから、楚と天下を争うようなことはやめなさいという意味だ。

 これは「天命思想」に基づく。これも詳しく述べると長くなるので、今回の要点だけ触れると「人々を統治するのは『天』が定める。統治者が不徳であれば、『天』は彼を見放し、新たに「天命」を授かった者が治める」。

 『天』は、西洋の最高神とは違って形を持たず、直接人間に影響を及ぼすことはないが、人々を見守っている存在である。だから、悪いことをしたときに受ける災害を「天罰」といい、人間世界全体を天の下にあるものとして「天下」という。

 かつて夏王朝は天下を治めていたが、天から見放されて滅び、天に選ばれた商(殷)が統治者となった。その商が天から見放され、天が周を選んで統治者とした。そして一度見放されたものは、二度と返り咲くことはない。だから、商の一族である宋は、天下を治める立場に返り咲くことはない。そういう思想である。

 

 この話は『史記』「宋微子世家」にも載せられている。『史記』では、列伝などの後に「太史公曰く」として、自信の感想を述べているが、宋の襄公について、以下のように述べている。

「襄公は泓水で敗れた。だが、君子の中にはこれを多とする(高く評価する)ものもいる。中国で礼儀が欠けているのを心苦しく思って、これを誉めるのである。襄公の礼儀・謙譲の心があればこそである」

 この絶賛は、後世の人に不思議さを覚えさせる。戦争で敗れれば、国内は蹂躙され、疲弊する。人々も犠牲になり、実際、襄公はこの時の傷が原因で、翌年の夏五月に卒去する。礼儀を重んじたからといって相手が遠慮してくれるわけでもない。普段の生活や外交の場なら礼儀作法は必要だろうが、戦争の場面である。司馬(あるいは目夷)の言葉こそ正しいはずだ。そう思わないだろうか。

 実は、ここに誤解がある。当時の感覚でいえば、襄公の態度は褒めたたえられ、司馬(あるいは目夷)の言葉は卑怯者の発想なのだ。

 今回、『史記』ではなく『春秋左氏伝』を用いたのは、これを言いたかったためである。

 では、例を挙げよう。ちなみに「戦車」、「車」という言葉が出てくるが、現在のような鉄製でキャタピラーが付いた巨大な乗り物ではもちろん無く、戦闘用馬車(チャリオット)である。また、「君子」という言葉も、立派な人物という意味で、必ずしも君主を指すわけでない。

 

 成公二(紀元前589)年、斉と晋が戦った。

 晋の韓厥(かん・けつ)が戦車に乗って斉の頃公の戦車に迫ると、頃公の御者が「あの人物に矢を射かけなさい。君子ですよ」と言うと、頃公は「君子と分かっていて矢を射るのは無礼だ」と言い、周りの者を狙うだけで留めた。

 韓厥が、動けなくなっていた頃公の車に迫ると、韓厥は車から降りて頃公の前に再拝し、頭を地面に付け、酒杯と玉壁とを献上した。

 

 成公十六(紀元前575)年、晋と楚が戦った。

 晋の郤至(げき・し)は、楚の共王の部隊と三度遭遇したが、そのたびに車から降りて兜を脱いで走り去った。共王が使者を出して「さきほどの方は君子ですね。お怪我あありませんでしたか」と尋ねると、郤至は「わたしはあなたの臣下ではないので、お言葉を賜ることはできませんが、こちらに怪我はなく、ご心配には及びません」と、使者に対して三度身体を曲げて、礼を述べた。

 

 同じ戦いにおいて。

 晋の韓厥が(楚の同盟軍の)鄭の成公を追っていた。韓厥の御者が「もっと速度を上げましょうか」と言ったが、韓厥は「わたしは(かつて斉の頃公を追い詰めたことがあるから)二度も国君を苦しめるようなことをしてはいけない」と、追撃をやめた。

 その後に郤至が鄭の成公を追っていたが、車右(に乗っている猛者)が「兵士たちに進路を阻ませたら、わたしがあの車に乗って、(成公を)引きず下ろしてみせます」と言ったが、郤至は「国君を傷つけると、あとで天罰を受けるぞ」と言って、やめさせた。

 

 これらは、宋襄の仁から50年以上も後の出来事である。いずれも、相手の優れた人物や君主などを捉える機会があったにも関わらず、礼儀を重んじてやめたのである。

 他にもこの時代の戦争における常識として、相手の国に攻め込んでも降伏すれば許し、滅ぼすようなことはめったにしない。戦場に出られる兵士は身分を伴うもので、身分のない雑兵が参加するようなことはない。戦が長引いて早々に決着を付けたいと思った時は、双方から勇者を二人ずつ出して、一騎討ちをさせる。仮に一騎討ちに負けたとしても、残りの軍勢で敵に襲いかかるような卑怯な真似はしない。

 まだ他にもあるが、これらは春秋時代の常識で、必ずしも守られたとはいえない場面も多々見受けられるが、どんな手を使ってでも勝てばいいという発想が生まれるのは、実力主義が横行する戦国時代からである。司馬や目夷の発想は、当時の常識に反している。

 宋が不運だったのは、相手が当時の常識など守らない、相手に勝てるならどんな手でも使い、優れた人を貶め、弱い国を次々に滅ぼして強国になった楚だったことだ。楚の君主や武将などが当時の常識に反する(当時では卑怯な)行動や発言をし、宰相格や知恵者が礼譲を守れとたしなめる場面も多々あるのだが、国の方向性が力政に傾いている向きは否めない。だからこそ、司馬あるいは目夷が、襄公を急かしたのだろう。

 

 尤も、余談がさらに続くことになるが、襄公とて理想を追い求めて清廉潔白、野心のない人物だったかというと、そうとも言い切れない話が載っている。

 僖公十六(紀元前644)年。宋で隕石が落ち、大風が起きたので、たまたま訪れていた周王の使者に吉凶を訪ねると、「魯で大きな喪が行われ、来年には斉で乱が起こります。貴国は諸侯の支持を得られますが、最後がよくない」と答え、退出してから他の人に「おかしなことを聞くものだ。災害は人の吉凶とは関係ない。吉凶は人に決まるものなのに」と呟いたという。

 僖公十九(紀元前641)年。襄公が鄫の君主を捕まえてこれを犠牲にして祭祀を行ったため、目夷が言った。「犠牲に使う動物は決まっているのに、人間を犠牲にするとは聞いたことがない。まして国君を捕まえて犠牲にするとは。覇者になろうとしても無理だ。幸せに死ねたら、まだましだ」

 思慮が足りないのある。そのくせ、楚との戦いでは仁を重んじた。これでは、後世に笑われても仕方ないと思うのだが、どうだろうか。

 

 時代は飛ぶが、漢の武帝に仕えた汲黯(きゅう・あん)の話を思い出した。

 汲黯は相手が誰であろうと容赦なく厳しい言葉を投げかけ、武帝に忌み嫌われた人物だが、武帝儒学者を招こうとしたときに、こんなことを言っている。

「陛下は内心では多欲なくせに、外面だけ仁義ぶっている。いまさら、堯や舜のような聖人の真似をしても無駄なことです」

 

 

 

春秋左氏伝〈上〉 (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1988/11/16
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そのまんまペンネーム

「そのまんまでいいだろ」

 師匠のその一言で、本名を東国原英夫という人物の芸名は、『そのまんま東』となったのである。

  東国原英夫氏といえば、元宮崎県知事であり、政治コメンテイターとしてさまざまなメディアにも顔を出しているが、かつては芸人だった。師匠はビートたけし(以降、芸名に関しては「氏」は省く。「さん」、「様」などの敬称、あるいは「くん」などが芸名になっている場合もあることからの混同を避けるため)、本名は北野武。彼も芸人として長く活躍し、今では映画監督としてその名は世界に轟いている。そのまんま東は、ビートたけしの一番弟子でもある。

 東国原という、非常に珍しい姓であるためか、当初は『東英夫』と名乗っていた。ビートたけしの弟子になっても、彼は師匠から「東」と呼ばれていた。

 ビートたけしといえば、弟子からは「殿」と呼ばれることも有名だが、弟子たちに奇妙な芸名を付けることでも知られている。ガナルカナルたか、つまみ枝豆なべやかん玉袋筋太郎など。この辺り、子供たちに珍奇な幼名を与えた織田信長に通じるところがあるかも知れない。

 それはさておき、東英夫が芸名を変えたいと言ったときの回答が、冒頭のものである。そのため、「そのまんま」と「東」を足したのだが、実は勘違いだった。

 ビートたけしは、東国原という奇妙な姓で充分にインパクトがあるため、

「(東というありきたりのものじゃなく、珍しいのだから)そのまんま(『東国原』)でいいだろ」

 と言ったつもりだったのである。

 

 漫画『ノラガミ』の作者は『あだちとか』というペンネームを使っている。二人組の女性漫画家で、名前は伏せているが、キャラクターを描く「安達」と背景を描く「渡嘉敷」のユニットなので、併せて「あだちとか」としている……のでは、ない。

 実は彼女たち、漫画『Q.E.D.iff -証明終了』や『C.M.B. 森羅博物館の事件目録』で知られる漫画家・加藤元浩の元でアシスタントをしていた頃がある。いずれデビューする時に備えてペンネームを考えていたが、いわゆる中二病的な複雑怪奇な、持って回ったようなペンネームばかりを模索していたらしい。それを聞いた加藤氏が

あだちとかにしろよ」

 と言って、このペンネームになった。一見、二人の姓を合わせたように思えるが、実はこの「とか」は、「~など」を意味するものだった。ここで加藤氏がおそらく言いたかったのは、

「(珍妙なのとか、分かりづらいものじゃなくて)あだち『とか』(とかしき『とか』、あるいは、さとう『など』のような、シンプルなもの)にしろよ」

 だったのである。たまたま、渡嘉敷の「とか」と被ったのでそのまま流用したのだろうが、もし一人だけだったら、「あだち〇〇」という別のペンネームになっていた可能性はある。

 

 人から言われてペンネームを付けたとされる有名人に、二葉亭四迷がいる。

 明治の小説家で、彼が小説家を目指したとき、当時はまだ小説家は賤業であり、文学に理解の無かった父から、

「くたばって仕舞え(しめえ。しまえの訛り)」

 と怒鳴りつけられたことに由来されている……と、聞かされた人も多いだろう。しかし、これは俗説である。実際には彼が処女作『浮雲』を出したとき、評価がいまいちだった。しかも、坪内逍遥の名を騙って出したものだった。名前を偽ったうえに、酷評という散々な結果だったため、自虐の意味を込めて、先の言葉を自分に投げかけ、ペンネームとしたのである。

 

「おーい、ちょっとこっちに来てくれ」

 と、呼びかける人がいる。名前を呼ばずに、ただ「おーい、これ運んで」、「おーい、あっちだ、あっち」という具合に。

 葛飾北斎といえば江戸時代後期の浮世絵師だが、彼の三女は栄(えい)という。「お栄」と表記されることもあるが、昔の女性は名前の前に「お」を付けて呼ばれることもある。「とら」なら「おとら」、「たえ」なら「おたえ」、「ぎん」なら「おぎん」というように。なので、栄が本名とみるべきだろう。

 彼女は堤等明(南沢等明)と結婚するが離婚し、父の元へ戻ってきた。それからは北斎の助手として働いていた。彼女によれば、北斎は栄を呼ぶときにはいつも「おーい(おうい)」と呼びかけ、名前では呼ばなかったという。そのため、栄は浮世絵師として絵を描き始めたとき、ペンネームを「おうい」=「應為(応為)」としたという。

 葛飾應為は天才女性浮世絵師として、その名を馳せることとなる。

 

 

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