いろいろなことに興味があり過ぎる問題点について

いろいろなことを興味の赴くままに

情報マニピュレーション

 ニュースを見るたび、その情報はすべて正しいのだろうか、と常に思う。

 

 新聞やTVのニュースの情報に対して「報道機関が嘘をつくはずがない」、「きちんと検証されているはずだ」という人がいる。しかし、後日になって情報の一部が誤っている、ろくに検証をせずに結論付けてしまった、あるいは故意に流されたデマだったということもある。被害があまり大きくなければ「検証が甘かった」、「思い込みがあった」などで済まされることもあるかも知れないが、生活や人権に及ぶようなものであれば訂正するだけで済まされない場合がある。

 1994年に起きた「松本サリン事件」では、第一発見者が容疑者とされた。検証を疎かにして氏を一方的に犯人と決めつけ、脅迫まがいの行為で自白を求めようとした警察と、それを信じてむしろ助長させ、誤報をばらまいたメディアは、後に批判された。真犯人が別にいることが、後に分かったからだ。25年も前の事件だが、覚えている人もいるだろう。TVや新聞を見ていた人たちのほとんどは、当時、氏が容疑者(犯人)であると信じて疑わなかったであろう。何しろ、警察もメディアもそう信じていたのだから。

 

 情報操作という言葉がある。Wikipediaでは、こうなっている。

「情報操作(じょうほうそうさ)とは与える情報(証言、記事、写真、映像)を制限したり、虚偽または虚偽にならない範囲で改変することによって、その情報を受け取った者が受ける印象や判断結果に影響を与えようとする行為。俗にイメージ操作ないし印象操作とも言及されたりする。広い意味では、ブランディングやコマーシャル、比較広告などの商業活動も含んでいる」

 印象操作ともいう。

 肝心なのは「虚偽または虚偽にならない範囲で改変する」なのだが、この匙加減が微妙で、先に挙げた「松本サリン事件」での「第一発見者は容疑者である」は虚偽である。しかし、それを信じていた人たちは虚偽だとは思っていない。氏が農薬を扱っていたという情報は真実だが、サリンを作ったという情報は虚偽だった。当時の学者たちも、氏の家にあった農薬を配合してもサリンを作ることは不可能である(氏が犯人であるはずがない)と結論付けていたのも関わらず、である。

 この場合、「氏がサリンを作った」のが虚偽なのに、改変された。結果、メディアは嘘を流したということになる。誤報であった。もし、意図的に流したとなればこれは偽情報であり、メディアの倫理観が問われることになる。

 虚偽にならない範囲での改変となると、「某店の塩ラーメンは絶品」などである。

 某店を取材した記者が「某店の塩ラーメンは絶品。これまでの常識を覆すほどの旨さだ」と、雑誌に書いたとする。それを読んだ人が実際に某店の塩ラーメンを食べてみたが、絶品というほどでもない。嘘だったのか、と言われると、これは「虚偽にならない範囲で改変」された情報に過ぎない。つまり、記者が店の宣伝のために「絶品」という表現を使ったが、絶品という言葉に基準があるわけではない。記者は本当に絶品だと思った、あるいは絶品と思い込ませたかったが、読者がそう思わなかっただけである。仮に読者が「こんなマズいラーメンを旨いだなんて、偽情報だ。謝れ」と言ったとしても、記者が「私は旨いと思った。旨いと言った客は他にもたくさんいる。味覚なんて人それぞれだ」と言ったら、それで終わりになる。仮に記者が「某店の塩ラーメンは最悪。二度と行きたくない、潰れてしまえ」などと書いて、客足が遠のいたり閉店に追い込まれるような被害が出たなら、店としても実害を被ったとして訴えることができるだろうが、店が褒められることで実害を被るわけでもない。「優しいうそ」の改変なら、問題ないわけだ。

 

 「消費税増税に賛成ですか、反対ですか」

 これは今回の増税ではなく、以前に3%から5%に上がるときに読んだ記事だが、某所で行ったアンケートによれば「賛成3%、反対97%」だった。昔の話なので、数値が不確かかもしれないが。そして某党の代議士が「消費税増税はほとんどの人が反対している。やるべきではない」とまくしたてた。実はここに、ちょっとした嘘があった。嘘というより、情報が操られたというべきか。

 実はこのアンケートが取られたのはその代議士の講演会が行われた会場のすぐ外の広場で、講演会の議題は「消費税増税に反対する」だった。つまり、最初から反対派で集まる、あるいは増税のデメリットを謳いあげるような内容の講演会だったのだ。反対と回答した人が多いのは当然の帰結だった。

 

 もうひとつだけ例を上げよう。これもかなり以前に読んだものだったので記憶が薄れているが、ある議題に対して賛成と反対の人たちが集まって討論したものである。

 この討論会の後、賛成派のA氏が執筆した。その中で、反対派に対する感想はおおよそ、こんな感じだった。

「反対派は常に大声でまくしたてたが、我々は慎重に言葉を選んで、是非を問いた」

「反対派の意見に整合性はなく、ヒステリックだった」

「反対派は憎らし気な顔で睨みつけてきたが、我々は冷静を保った」

 後日、たまたま図書館で反対派のB氏が書いた本を読んだ。討論会について、賛成派に対する感想を述べていた。

「我々が声高に主張すると、賛成派は小声でボソボソと呟くだけだった」

「賛成派は冷淡で、現実問題だと思っていないのではないか」

「我々が睨みつけると、賛成派は目を逸らし、俯くしかなかった。普段、偉そうに言っておきながら、ろくに反論もできないのか」

 さて、どちらが本当だろうか。討論会に一般参加した人の話では、実は賛成派のA氏の言う通りの展開だったらしい。反対派はヒステリックに、賛成派が提示する資料もすべて嘘だと決めつけて聞く耳を持たず、大声で威圧するような言葉ばかり吐いていたらしい。ただしこれも、賛成派の賛同者として書かれた可能性もある。

 ここで考えて欲しいのは、もし反対派のB氏の書物しか読んでいない人がいたら、どうだろうか。その読者はおそらく、賛成派は言葉を濁して論議を避けるような卑怯者のように思い、反対派の前で意気消沈している姿を思い浮かべるのではないだろうか。そして反対派の意見や態度が正しいものであると感じるかも知れない。

 これはある意味、危険なことではないだろうか。

 

 それまでは新聞やTV、ラジオなど、発信者が情報を整理、調整、あるいは操作されて流されたものを目にしてきた。それらのメディアが「この事件の犯人はA氏だ」と言い、「消費税の増税も仕方ないことだ」と言えば、みなそれに疑いを抱かなかった。疑ったとしても、反論するには自ら情報を集めて整合するという作業が必要だった。インターネットの普及によって、情報が様々な角度から入るようになり、人々に情報選択の可能性が広まったと言える。「この事件の犯人はA氏だ」と言っても、近隣の人たちが「A氏ではありえない」と言い、学者が「A氏には不可能だ」という副次的情報があれば、どちらが本当なのかと考える余地が与えられる。同様に、「増税は仕方ないことだ」と言っても、「増税は商店にとって手間ばかりかかる」とか「消費税の使途に不明瞭な部分がある」などの情報があれば、やはり考える余地は増える。

 また昨今では、会社や学校などでの不正やパワハラ、セクハラなどが表沙汰になる場合が増えてきたように思う。それまではいわゆる「密室」の出来事で、情報が隠匿されていたが、誰もが自由に情報発信できるようになったことで、密室に穴が開くようになったためと思われる。蟻の這い出る隙間さえあれば、逆に外からもこじ開けることが出来る。密室が解放されて、悪事が暴かれるのは良いことだが、同時に、貶めたい相手の偽情報を流したり、事件と関わりのない人間を犯人と決めつけて誹謗中傷を行うような出来事も起きていることを考えると、その功罪は表裏一体である。ジレンマである。

 

 情報を求めるとき、誰もが無意識に起こしていることがある。

 それは、自分が望む情報が、自分が望んだ通りの結論とともに提示されていることを期待することだ。

 たとえば、消費税増税に反対であれば、賛成の意見を見たくないと思うし、無視したくなる。増税反対という情報に、増税によるデメリットはメリットを上回っているという結論が伴っていることを望むわけだ。そして、反対派は庶民の味方で、賛成派は悪とみなしてしまうこともあるだろう。これは逆でも同様だ。そして、それが良くないことであるとは、これまでの例を見てもらえれば感じるだろう。

 情報は複眼的に捉えることが必要で、できれば自分と異なる意見を見る必要があるだろう。ひと昔前なら、様々な新聞を集めたり、書物を漁ったりするのに大変な手間がかかったものだが、インターネットの普及で比較的やりやすくなった。消費税反対なら、消費税賛成という言葉で検索をかける。某店の塩ラーメンの評価なら、評判、評価、口コミ、実際に食べてみたなどの言葉で検索をかける。もちろん、受け入れがたい情報もあれば、不愉快な決めつけ、意図的な偽情報なども混じっているだろう。

 玉石混交だ。

 それを完全に精査するのはほぼ不可能であるうえ、情報を見るたびに「これは本当かな」、「みんなが批判しているけど、本当に悪いことなのかな」という疑いの目を持ち続けて何もかも信じないというのも精神衛生上よくないことではある。そのバランスを保つのもなかなか難しいことだが、少なくとも自分と同じ意見だからといって鵜呑みにせず、逆に反対意見でも一応は聞いてみようという態度は、悪いことではないと思う。

 情報に踊らされるのは決して気持ちいいことではないのだから。